既に令和七年を迎えてしまいましたが、私と同じくウィキペディアで活動されているkeezawaさんが昨日アップされた「2024年Wikipedia振り返り」というブログ記事に触発されて、令和六年のウィキペディアにおける活動を振り返ってみることにしました(ブログ記事を書くのが久々ということもあり、keezawaさんを倣って、ウィキペディア内でも使用する柔らかい文体で書いてみたいと思います)。この一年間では、十二本の記事を立項して二本を全面改稿し、七本を「良質な記事」に選出して頂きました。
[[清水澄子 (さゝやき) ]]
年が改まって間もなく、スタブだったのを全面改稿した記事。令和六年初の執筆記事といっていいものと思います。私が以前から書き続けている、夭折した文学少女の記事の一つでもあり、これまでに書いた人物としては、山川彌千枝・千野敏子・中澤節子・井亀あおいなどがあります。夭折文学少女への思い入れについて語ると、長くなり横道に逸れてしまうので省きますが、大正十四年に自殺した長野県上田市の女学生・清水澄子は、これらの原点ともいえる存在です。
十五歳にして人生に苦しみ、「光を求めて永遠の世界に行きます」とのセンチメンタルな遺書を残して命を絶った彼女の遺稿集『さゝやき』は、当時の女学生たちに大きな反響を巻き起こし、後追い自殺する者も後を絶たなかったとされます。当然『さゝやき』は学校において禁書となり、読むことが禁止されたわけですが、それでも隠れて読む者があとを絶ちませんでした。興味深いことに、同じく長野県の女学生であり、戦後に遺稿集『葦折れぬ』がベストセラーとなった千野敏子(昭和二十一年没)も本書を読んだことを日記に記しているのですが、「あの女学生にはたしかに天才的なひらめきはあるが、然し深遠ではない」と切り捨てています。また遺稿集『花散りぬ』で知られる京都府の中澤節子(昭和二十二年没)も、「特によく修養をした人以外には非常に有害なものである事を感じた」と記しているのですが、それだけ『さゝやき』が当時広く読まれていたことを窺わせます。
千野敏子・中澤節子・清水澄子と記事を書き進めてきて、女学生たちの日記を通じ、時代を超えた、このような一つのささやかな流れが見えてくるのは非常に興味深く、感慨に打たれました。記事には『さゝやき』に掲載された写真を複数掲載していますが、『さゝやき』は図書館で借りることが困難だったため、この記事のため、「日本の古本屋」で購入してスキャンしました。
この記事に残された課題としては、澄子の記念碑の写真を掲載したいという思いがあります。記念碑は「うえだ敬老園」という老人ホームの隣に建てられているとされていますが、グーグルストリートビューで確認しても、それらしいものが見当たりません。また、ネット上では一枚も記念碑の写真や存在への言及が確認できず、ここまでくると撤去されているのではないかとの懸念もありますが、建立が平成十五年と比較的最近であるのと、敬老園の横にある公会堂、その敷地の奥がどうも怪しいので、いずれ上田まで行って確認してみたいと考えています。そのときには富士見町の千野敏子の記念碑へもともに行ければ……。また本記事は「良質な記事」に選出して頂きました。
[[邪宗門 (高橋和巳) ]]・[[憂鬱なる党派]]・[[散華 (高橋和巳)]]・[[堕落 (小説) ]]・[[日本の悪霊]]
これらはいずれも、作家・高橋和巳の小説作品の記事です。憂鬱なる党派は全面改稿(強化)、残りはすべて新規立項したもので、邪宗門 (高橋和巳) ・憂鬱なる党派・日本の悪霊を「良質な記事」に選出して頂きました。
令和六年は、高橋和巳に猛烈にハマった一年でした。この一年で代表作をすべて読み尽くしたのですが、高橋は昭和四十六年、三十九歳で癌により早世しており、作品数が限られているということもあります。高橋作品は特徴として、いずれも陰鬱な雰囲気に満たされ、主人公が自ら望んで急激な破滅への道を辿る、ということが挙げられます。作品記事をこうも精力的に立て続けられたのは、そうした作品世界に個人的に魅せられたことは勿論理由として大きいのですが、その忘れられぶりが余りにもひどい、ということもあります。
生前の高橋は、当時の全共闘世代に大きな人気があり、こうした作風もあって「苦悩教の教祖」と呼ばれる存在でした。同時期に若くして死去した作家として三島由紀夫がおり、高橋もあの壮烈な割腹を遂げた彼へ、追悼文を寄せた数ヶ月後には自らも病死するわけですが、思想の方向は正反対であっても、高橋と三島は互いに敬意を持って対談などをしており、そして双方とも人気作家でした。しかし今、すべての長篇が新刊の文庫本で入手できる(驚くべきことです)三島由紀夫に対して、高橋作品は見事に忘れ去られてしまっています。
それは何故かというと大きく横道に逸れますが、やはり「知識人の苦悩」という、高橋の取り組んだ主題が古臭すぎるのだろう、と一般的には考察されているようです。ともかく、そうした時代の苦悩を壮大なスケールで描き出す高橋作品が忘却されていることを、非常に残念に思ったのが記事執筆の動機としてあります。また近年、高橋作品の多くは河出文庫やP+DBooksで再び入手できるようになり、復権の目もないわけではないようです。つまり、記事を読んで興味を持った読者は、新刊で作品を入手することができるわけです。こうした微妙な時勢が、執筆には大きく追い風となったのでした。
[[廻廊にて]]・[[夏の砦]]
いずれも作家・辻邦生の小説作品の記事です。廻廊にては、「良質な記事」に選出して頂きました。辻に関しては令和五年にも[[安土往還記]]を立項しており、言うまでもなく私の愛好する作家です。高橋や辻、そして福永武彦もですが、こうした忘れられかけている作家の作品こそ、復権してほしいとの思いから、記事を執筆したいという気持にさせられます。文学分野もまた、他のウィキペディアの多くの分野の例に漏れず人手不足で、夏目漱石や芥川龍之介など、著名な文豪の記事ですらあらすじしかないものが多いのですけれども。ただ、三島由紀夫はみしまるももさんという優秀な執筆者のおかげに、随一といっていいほど、非常に充実しています。
[[木村唯]]・[[猿渡瞳]]
いずれも、若くして癌で病死した少女の記事です。令和五年に、同じく癌患者の[[山口雄也 (闘病記著者)]]・[[山下弘子]](いずれも故人)の記事を書いたことがありますが、なぜ癌で若くして死去した人物の記事を書くのかというと、中々答えを出すのは難しいのですが、一つには私と同年代である山口雄也(令和三年没)が盛んに闘病生活をツイッターで発信していて、その活動を生前から見ていたことがあると思います。山口は自らの痕跡を残したいと、病身を押して積極的な発信を続けており、ブログ記事をまとめた著書の出版も実現させました。そうした姿を見ていただけに、訃報を聞いた際は相応の衝撃がありましたし、本も買い求めましたので、彼がこの世に残した痕跡をより鮮明なものとすべく、記事を立項したという流れであったと思います。
この中では、木村唯もまた、私や山口と同年代です。彼女は浅草の花やしきで地方アイドルとして活動していたのですが、生前のその姿を動画で撮影してユーチューブにアップしていた Contarex Tokyo さんが、動画にCCライセンスを附与して下さっていたため、彼女の画像を動画に添えることができました。このように画像を貼付できることは大変ありがたく、CCライセンスというものがより広まってほしいなと常々感じます。
[[元祖国際秘宝館]]
有名な秘宝館の記事です。語ることは少ないのですが、これの執筆のために秘宝館関連の書籍を数冊買い込みましたので、他の秘宝館の記事も追々立てていきたいとは思っています。当時、ウィキペディアン間でその有用性が盛んに話題になっていた大宅壮一文庫を、初めて使って書いた記事でもあります。このような、雑誌に取り上げられることの多かった題材には特に有用ですね。
[[町田市立つくし野中学校いじめ自殺事件]]
平成三年に発生したいじめ自殺事件の記事です。令和四年に、昭和六十三年に発生した同様の事件、[[富山市立奥田中学校いじめ自殺事件]]を立項しているのですが、これと関係性のある事件でもあります。どのような関わりがあるのかというと、つくし野中事件の発生直後に学校側が生徒に書かせた作文を、学校側が遺族に開示しなかったため、遺族が開示請求を申し立てたのでした。結局裁判にまでなり、作文は非開示で決着するのですが、この開示請求事件を新聞の記事で目にした奥田中事件の遺族が、これを参考にして作文の開示請求を行ったほか、両遺族の間に関しては、交流も生まれました。
これはいずれ詳しく書こうと思いますが、私は令和五年、奥田中事件の遺族の岩脇壽惠さんにお会いし、お話させて頂く機会を得ましたので(無論、事件自体と関わりのない私が一方的に押しかけたわけではなく、富山を訪れた際の、岩脇さんと西宮外喜子さんのご厚意によるものであることは明記しておきます)、奥田中事件は一層、私にとって身近に感じられるものとなりました。そのときは既に奥田中事件の記事は立項していましたが、つくし野中事件に関しても遺族の前田さんが手記を出版していることなどから、奥田中事件と同時に資料が多くあり、これをもとにして記事を書こうと思い立ち、立項したという経緯になります。
[[宇品島]]・[[阿波の土柱]]
いずれも地形の記事で、リダイレクト起こししたものです。宇品島は宇品へ、阿波の土柱は土柱へリダイレクトされていました。宇品島は令和五年に第四十九回先進国首脳会議(G7広島サミット)の開催地となったために存在を知ったもので、記事がないことにはこのときに気づいていたため、立項を検討していたのですが、資料があまり見当たらなかったことと、当時オープンストリートマップがウィキペディア上で使用不能になっていたことなどから、執筆するまでには至りませんでした。そしてその間にG7広島サミットは無事開催され、そして終了したのでした。
宇品島に関しては、地元ではその名前で呼ばれることが殆どなく、そもそも橋で本土と繫がった橋であることも余り認識されていないようです。専ら町名である「元宇品」の名前で呼ばれるようなのですが、その事実を明瞭に示す資料が発見できませんでしたので、これが課題だと感じます。
一方で阿波の土柱は、何かの調べ物をしていて存在を知ったのですが、日本語版に記事がない一方、英語版・ポルトガル語・マラーティー語版には記事があるという、不思議な状況を呈していました。「阿波の土柱」でグーグル検索を掛けると、ナレッジパネルに表示されるのは英語版ウィキペディアで、これは余り好ましい状況ではないということで、立項を決意するに至りました。
令和六年の振り返りは大体このようなところです。ウィキペディアでの活動に関して、まとまった文章を書いたことがありませんでしたので、今後は備忘録としても定期的に、こうした振り返りは行っていきたいところです。令和七年もウィキペディアでの活動は変わらず続けていきたいと思いますが、引越しによって環境が激変し、国会図書館にもそう頻繁には行けなくなりましたので、それをどう補っていくのかが課題ですね。場合によっては立項頻度は低下するかもしれませんが、出来得る限りのことはしていきたいと思います。