《文フリ・平成三十年冬》髙﨑洋『鏡像 ―ミラード―』/あつしれんげ『退屈な日々の過ごしかた』

 平成三十年冬に「文学フリマ」で購入した小説同人誌の、全ての感想を書かうと思ひながら早一年が經つてしまつた。そこで今からでも、少しづつではあるが書いていかうと思ふ。取り敢へず二作品を紹介する。

 

髙﨑洋『鏡像 ―ミラード―』(霧虹文芸社

 非常に暗い色調で展開される小説であり、これはカヴァーの裏に書かれた「親からは嫌われ、学校ではクラスメイトからいじめられていた。誰も信じることができず、ひとりでもがき苦しんでいた俺の前に、あるとき突然、ひとりの少女が現れる」から始まる粗筋からも察せられることであらう。私は髙﨑氏の同人のメンヘライⅢ氏の説明と、この粗筋とに惹かれて購入した。

 概要をごく簡單に説明すれば、松浦リョウといふ少年が、「自分が松浦ハルカといふ少女として生れてゐた世界」に何らかの原因で轉移してしまつたといふのがこの物語の骨子である。名前の漢字はどちらも遼と書くのだが、それぞれ讀みは異なつてゐる。

 高校生である主人公の松浦リョウの人生は、先述の粗筋からもわかるやうに悲慘極まるもので、その主因は母親にある。「自分が産み落とした責任として、高校を出るまでの学費は出してやる。家にも住ませてやる。ただしそれ以外の、母親としての一切の関わりを断たせてもらう」とリョウに言ひ放つほどに、自分の子を嫌ひ拔いてゐる。何故そこまで嫌ふのかといへば、本當は我が子には女として生れてほしかつたためであり、これが明らかになる過程では、女として生れなかつたのならば子は死んでもいいとまで考へてゐたこともわかる。そのために女として生れた(正確には女にした、と言ふはうが正しいのだが)ハルカには、リョウとは正反對の愛情を注ぎ込むわけである。

 母親に溺愛されて伸び伸びと育つたハルカの人生は、精神的虐待を受け續けたリョウの人生と紙一重の關係にあり、これがこの作品で言ふ鏡の表裏となつてゐる。男と女といふ性別、人生の明暗、リョウとハルカは元々は同一人物でありながら、餘りに對照的な存在であるが、眞に恐ろしいのは、それらは結局「母親の一存」に起因するといふことであらう。二人の人生をこれほどまでに違ふものとしてしまつたのは、手術による性別變更といふ架空の要素を除いても、ほぼこの異常な母親一人のためといつてよく、親といふ人間がどれほど子供の人生を左右してしまふかといふことについて思ひを馳せざるを得ない。

 結果としてリョウは完全な人間不信に陷つてをり、高校を出た後は自分一人の力で生きていくことを決意してゐる。一方で愛情を周圍から注がれた故に、優しく誰でも素直に信じてしまふ存在となつたのがハルカであり、前松龍二といふ惡黨らから危ふく輪姦をされかけたといふのもこれが原因である。これは人間の惡意を強く描き出した小説でもあるのだが、互ひに窮地から助け出してくれる存在を見つけられたことで、救濟をも描いてゐる。

 しかしこの作品は、決して他者からの救濟を描いたものではない。結局リョウとハルカは同一人物であるからだ。それは自分がハルカの世界に呼ばれた理由を知つた際の「本当に助けが必要なとき、他人は力になってくれない。自分を救えるのは、自分だけだ。」といふリョウの言葉に現れてゐる。他者を信じなかつたリョウの人生觀は、かうしてみると最後まで變ることはなかつたやうに思はれる。最後に殘るのはハルカ一人であるのだから最早人生觀が變る必要もないのかもしれないが、結局のところ二人の行動が自己救濟に留まつてゐるのは、やや寂しくも思はれた。但しこれこそが、この作品の主題なのではないだらうか。

 母親も懺悔の言葉を口にするものの、リョウは彼女の改心を信じてはゐない。他者は助けてはくれない、人間の根本はさう簡單に變ることはない。一見ハッピーエンドに見える終り方ではあるが、最後までこの二つの價値觀はぶれてゐないことを、見逃してはならないであらう。

 

あつしれんげ『退屈な日々の過ごしかた』(サングローズ)

 或る雨の日、地面に橫たはる「私」の身體を、野良犬が喰つていく。その樣子を、喰はれる側である「私」による客觀的な視点から捉へた掌篇小説である。

 表紙に描かれてゐるのは雨が波紋を描く地面にしやがみ込む少女であり、長い髮やスカートの描寫から見ても、「私」はこの少女と考へてよいのであらう。既に彼女の身體は「食べられる箇所も少なくなってきている」「あらわになった骨に黒ずんだ肉がへばりついていた」といふ状態になつてゐるが、本人は平然としてそれを觀察してゐる。死體となつた少女の身體は、「觀察」してゐる、スカートを履いた「私」とは別であるやうだ。「わたし」は既に死んだ幽靈のやうな存在であるのかもしれない。

 しかし四頁のこの小説の中で彼女の背景が語られることはなく、ただそこには「今」だけがある。限りなく小さく纏められた、「退屈」な世界。そこには子供の頃の、自分が見てゐた世界が重なり合ふやうに思はれた。「わたし」が自らの死體を觀察する樣子も、あたかも子供が昆蟲か何かを一心に見つめ續けてゐるやうでもある。靜かな、どこか懷かしいものを感じさせられる作品だつた。