『中二病』などのレッテル

 最近になつて、インターネット上でよく見掛けるやうになつた言葉の一つに『中二病(廚二病)』がある。中二『病』とは言つても病氣ではなく、これは『中學二年生頃に見られる背伸びしがちな行動や言動』を揶揄するもので、「しばしば中二病として嘲笑の対象となるのは本人が自己設定した(外部から見れば片腹痛いような)奇異なキャラクターを周囲に押し付けるような振る舞い」(ウィキペディアより)だと言ふ。はつきりとした定義が定められてゐるわけではないのだらうが、大體はこのやうな意味合ひで用ゐられてゐる言葉である。

 この『中二病』といふ言葉は、樣々な人間の發言を容易に見ることのできるネット上では人の行動をからかふ道具としてかなり使はれるやうになつて來てゐるのだが、そのことについて少し言ひたいことがある。それは、『人と異なる行動をする人間を見つけるとすぐに「中二病だ」とレッテル貼りをする人間』がゐることである。

 前回に書いた「『ネトウヨ』の定義」といふ記事でレッテル貼りについては既に書いたのだが、それはそれだけレッテル貼りといふ行爲が浸透し濫用されてゐるといふことの證でもあらうし、ネット上に氾濫するレッテル貼りにうんざりしてゐるのは私ばかりではなからう。これは結構深刻な問題を孕んでゐるやうにも思はれる。

 さて、『人と異なる行動をする人間を見つけるとすぐに「中二病だ」とレッテル貼りをする人間』だが、これがよく見掛けられるのである。最初は私も『中二病』といふ言葉を面白がつてゐたのだが、餘りにも何も考へずに『中二病』認定をする人間たちを見てゐるうちに、果してこれでよいのだらうかと考へ始めた。彼らはその行動にその人なりの信念が込められてゐたとしてもそんなものには目を向けようともせず、レッテル貼りをして喜ぶだけである。そして『かういふ理由でかういふことをしてゐる』と説明しても、この説明は中二病でないことを必死に證明しようとしてゐるだけのものだ、自覺がない中二病だな、と受け取り當然耳を貸さうともしない。自分では理由があると思ひ込みつつかかつてゐることがあるのが『中二病』だからであり、これは『中二病』の定義が『ネトウヨ』と同じく曖昧であるがゆゑの現象である。

 私はこれと似たものに、近年流行つてゐる『自己滿足』『僞善』が擧げられると思ふ。何か社會的に『善い』ことをしようとした、或いはしてゐる人間に、かういつた言葉を浴びせる者がゐる。もちろん私はその行爲が本當に『自分の自尊心を滿たすためだけにやつてゐる』場合、『相手に對價を求めてゐる』『人のためになつてゐない』『有難迷惑になつてゐる』場合、それを知つてゐるのにも拘はらず「『善い』ことをしてゐるのだからいいぢやん」と續けてゐる場合、『善い』ことをしてゐる一方で『善い』心と『矛盾した惡行を働いてゐる』場合、には『自己滿足』『僞善』が當て嵌ると思ふ。しかし「あツ、こいつ『善い』ことをした! 僞善だ! 單なる自己滿足だろ!」といふ風潮はいかがなものかと思ふ。それが自己滿足や僞善なのかそうでないのか、見ただけで分るわけがない。『自己滿足』『僞善』レッテル貼りを繰り返してゐる人間は、さういつたレッテル貼りをされる可能性がある奉仕活動は格好惡いと思つてゐる。そして、自分は格好の惡い奉仕活動なぞといふものはやらない、といふことを證明するためにレッテル貼りをするのである。そして『中二病』と同樣、本人の言葉には耳を貸さない。

 『中二病』『自己滿足』『僞善』と言はれたくないためには、何もしなければよい。しかしそれでよいのだらうか。私にはそれが最善の選擇だとは思へない。所詮この世の中では何をしようが理解してくれない人間、けちをつける人間は山ほどゐるのだから、そんなものを氣にしてゐたならばきりがない。どちらを選んでも大して變らないのであれば自分が正しいと思ふこと、好きなことをすればよいと思ふ。レッテル貼りを恐れてゐては始まらないし、レッテル貼りのために何かをやめてしまふのはもつたいないことである。それが本當の自己滿足、僞善でないならば、他人に迷惑を掛けてゐないのならば、どんどんとやつてしまへばよいではないか。