『はつかねずみと人間』ジョン・スタインベック著

 スタインベックの著作を讀むのは、『怒りの葡萄』以來である。『怒りの葡萄』は1930年代の大恐慌の頃に大地主に土地を追はれた農民の過酷な生活と苦しみゑがいたものだつたが、『はつかねずみと人間』もこれと時代はほぼ同じである。

 『怒りの葡萄』に出て來るジョー一家は、初めは家族全員で出發したものの、旅が進むにつれ次々と死亡したり去つてしまつたりしてゐなくなつてしまふ。それでも團結し何とかして生き延びようとする小説であつたが、今回旅をする人間は男二人組で、「組んで旅してる者なんて、めったにない」と珍しがられる場面も出て來る。

 さて、ジョージはレニーといふ厄介者を抱へながら旅をしてゐる訣で、レニーさへゐなければあんなこともできたしこんなことに卷き込まれることもなかつたのに、と愚癡を零す場面が何回かあるが、レニーがジョージにとつて缺かすことのできぬ存在であることは讀者の目からも明らかである。キャンディにとつての老犬も、長い間共に生きて來た、對話をする大切な存在であつたし、クルックスは會話をする相手がをらず孤獨で、自らの部屋にキャンディ達が來たときには怒つたふりをしながらも喜びを感じてゐる。カーリーの妻も夫のことを好いてゐない。彼女が勞働者に用もないのにやたらと話しかけてゐたのは、農場に於て紅一點であることと、夫を愛せぬことゆゑの寂しさの發露でもあつたのかもしれない。キャンディが彼女の遺體に向かつて言つた「かわいそうなやつだ」といふ言葉がそのことを表してゐるやうにも思はれた。

 レニーはハツカネズミを愛する餘り、その強い力で殺してしまふ。子犬も、殺す氣はなかつたのにも拘はらずぶち殺してしまひ、カーリーの妻までも殺害してしまつた。カーリーの妻やウィードの女についてはさうではないが、レニーは愛する對象をかはいがり過ぎたために、その力を制禦することができなかつたのである。しかしこれはレニーのみならずジョージにも言へる。彼はレニーを愛し過ぎてゐた。だから、レニーを農場の男たちにリンチさせることよりも、一瞬で射殺することを選んだのである。これは正しい選擇だつたのか、その答へは讀者の考へに委ねられてゐる。しかし、死んだカーリーの妻は、「その顔からは卑しさも、たくらみも、不満も、注目されたいという疼きも、すべて消えていた。彼女はとても美しく、あどけなく、その顔はかわいらしく、若々しかった」と描寫されてゐる。死んでやつと、彼女は女優になれなかつたことへの不滿や夫への憎惡から解放されることができた。それならばレニーも、この世の全ての負の感情から、逃れることができたと見るべきなのかもしれない。

スタインベック全集 4 はつかねずみと人間<小説・戯曲>大阪教育図書 / はつかねずみと人間<小説>高村博正訳