『ネトウヨ』の定義

 最近になつてよく見掛けるやうになつた『ネトウヨ』といふ言葉。テレビ番組等でも取り上げられたので、知つてゐる方も多いであらう。この間ツイッター上でこの言葉に關する議論が展開されてゐるのを見て、はつと氣づかされたことがあつた。今回はそのことについて書きたいと思ふ。

 『ネトウヨ』といふ言葉そのものは『ネット右翼』の略稱である。つまり、インターネットを利用して右翼的意見の投稿等を行ふ人たちのこと、のはずなのだが……この言葉はどのやうな人間が對象になるのか、がよく問題になつてゐる。

 なぜ問題になるのかと言ふと、この言葉には蔑稱的な意味合ひが非常に濃いためである。『ネトウヨ』といふ言葉を使ふのは主に『反・ネトウヨ』の立場の人間であり、大體は『ネトウヨ』に對する批判や嘲笑と共にこの言葉は用ゐられる。自ら進んで『ネトウヨ』と名乘つてゐる者は、この言葉にまとはりつくこの惡いイメージを拂拭すべく、敢てさう名乘つてゐる場合が多いやうに見受けられる。それでも『ネトウヨ』といふ言葉に込められた蔑稱的意味合ひは未だに強い。

 かうして定義が明瞭にならぬまま、「ネトウヨ=差別主義者」「ネトウヨ=低學歴」「ネトウヨ=引きこもり」「ネトウヨニート」「ネトウヨ=社會の最底邊」「ネトウヨ=韓國のことしか頭にない人間」「ネトウヨ=氣持ち惡いオタク」といつた發言が『反・ネトウヨ』の、一部の著名人をも含めた人間から繰り返されることとなり、逆の立場の人間からは「ネトウヨ=普通の日本人」「ネトウヨ=愛國者」だといふ反論がなされ、兩派からの罵倒の應酬が今に至るまで繰り廣げられ續けてゐる。

 どうしてかうなつたのか少し考へてみたが、要するに左派は、自分にとつて不快な發言をする人間を汚れきつた最低人間の屬性に押し込みたいのであり、右派は自分が散々に罵倒されてゐる『ネトウヨ』に自分が含まれてゐるのかどうかはつきりせず、ネット上の右派批判にはいつも『ネトウヨ』といふ言葉が使はれてゐる状態に怒りを覺えてゐるのであらう。

 ここでいくつか言ひたいことがある。

 一、ネット上での活動を行ふ右派にとつて、定義もはつきりしないまま罵倒され續ける『ネトウヨ』に、自分が加はつてゐないかどうかを心配するのは至極當然である。

 二、『ネトウヨ』は變更可能な屬性ではない。

 一、については當然のことであらう。「ネトウヨはなんで『ネトウヨ』は存在しないと言ひ張るのにネトウヨと呼ばれると怒るの?(笑)」のやうな文章を見掛けたことがあるが、「『ネトウヨ』は存在しない」といふのは上に述べたやうな「ネトウヨは普通の日本人。日本人として國を思ふのは當り前」といつた考へ方から來てゐると思はれる。私からすれば「ネトウヨ=日本人」といふのは行き過ぎであると思はれる。日本を思ひ、愛國心を持つのは大切なことだが、ネットでさういつた主張を行ふ人間が日本人の大半を占めてゐるとは到底考へられないからである。

 ただ、自分が含まれてゐるのか不明瞭な屬性であつても、さういつたものに對する罵倒表現を目にすればある程度の怒りは覺えるものではなからうか。ましてや『ネトウヨ』は先にも述べたやうに、字面からは「ネットで活動する右翼」以外にほとんど情報を讀み取ることができず、もちろん辭書にも説明は載せられてゐない。更にネット上では「かういふ奴がネトウヨだ」「この時點でこいつはネトウヨ」などと、掌握しきれぬほど多くの主張、説が飛び交つてゐるのである。

 次に二、について。「『在日』は變更不可能な屬性なので差別すれば差別だが、『ネトウヨ』は今すぐにでも變更可能なので差別しても差別ではない」といふ説には、正直に言ふと「さうかもしれない」と思つてしまつてゐた。しかしそれは違ふ。『ネトウヨ』は外部の人間からのレッテル貼りに他ならない。そしてその定義は不明確で人によつてまちまちである。更に最近は安倍首相までもが『ネトウヨ』と呼ばれる事態にまでなつてをり、既に『ネトウヨ』が『自分が氣に入らない保守思想の人間に貼るレッテル』になつてしまつてゐることは明確である。よつて『ネトウヨ』とやたらにレッテル貼りをする、最近の『反・ネトウヨ』界隈の行動は差別であると言へる。

 但し、私は差別や根據のないデマ流し、史實の歪曲や捏造には斷固反對であるし、情報の取捨選擇をせず自分の信じたい情報だけを信じる姿勢は絶對にいけないものだと思つてゐる。本來當然のことではあるが、一應書いておく。