國立國會圖書館「著作者情報公開調査」に情報を送つてみた話

 最近殊にお世話になつてゐる國立國會圖書館だが、最近になつて「著作者情報 公開調査」といふものをサイト上で行つてゐることを知つた。

著作者情報公開調査-トップ

国立国会図書館では、資料をインターネット公開するために、著作者/著作権者に関する公開調査を実施しています。
公開調査により著作者の著作権保護期間満了であることが確認できた場合は、著作権保護期間満了としてインターネット公開を行います。著作権保護期間内であり、著作権者のご連絡先が判明した場合、利用に関して許諾依頼を行い、許諾が得られましたら、インターネット公開を行います。
皆様からの情報をお待ちしています。ご協力をよろしくお願いいたします。

 とある。
 著作者の歿年が分からなければ、即ち歿後五十年を經てゐるといふことは分らないので、いつまで經つても著作權が失效したことを確認出來ず、パブリックドメインと見做せない、いはゆる孤兒作品といふものになる。著作者の身元が不明であれば歿年が不明である割合も高いわけで、さうした著作者の情報を募つてゐるといふことになる。
 まあ、かうしたものは著作者の遺族だとか子孫、知り合ひだつた人などが情報を提供する場であつて、一般人には餘り關係のないものだと思つてゐたのだが、今回、思ひがけなく私から情報を提供する機會があつた。
 最近、私は『青鞜』に興味を抱いて色々とそれに關する本を讀んでをり(青鞜といふのは日本史で習ふので知つてをられる方も多いと思ふが、明治時代に女性のみで發刊された文藝雜誌である)、その讀んでゐた本の中に『「青鞜」人物事典(二〇〇一年、大修館書店)』があつた。これは青鞜に關はつた人物をほぼ網羅した事典であり、これを讀むと平塚らいてうや與謝野晶子のやうな一部の著名な人物の他にも、多くの現代では名を知られることも少ない女性たちが青鞜に參加してゐたことが分かる。中にはこの事典を以てしても身元不明となつてゐる人物も多く(そもそも社員名簿が現存してゐない)興味深いものであつた。そしてここに載せられてゐる全員を「著作者情報 公開調査」で檢索してみたところ、この中で「武市綾子」といふ人物が調査對象になつてゐるのを見つけた。
 武市綾子は『過度時代の婦人』といふ著書が所藏されてゐるため調査對象になつてゐたのだが、見ると生歿年共に不明となつてゐる。しかし一方で手元の『「青鞜」人物事典』には生歿年も略傳も載つてゐるわけで、これは送つてみてもいいとの考へで、送信フォームに必要事項を記入して送信した。
 ここでついでに、ネット上には今のところ全くと言つてよいほど情報のない、武市綾子について述べてみたい。
 『「青鞜」人物事典』によれば、彼女は一八八九年二月二十二日に生れ、一九四二年八月十一日に歿してゐる(つまり現在の時點で著作權は消滅してゐる。また、この事典では名は「綾」と書かれてゐる)。生れは愛媛縣伊予郡北伊予で、父の武市庫太は同志社英學校に學び、村會議員、縣議會議員を經て一九〇一年から衆議院議員に六回當選、一家は東京で暮したとある。
 綾子は一九〇六年四月に日本女子大學校英文學部に同英文豫科から入學、一九〇九年に卒業した。その後は二、三年の間研究科生となつてゐるが、『青鞜』に投稿した『人形の家(ジェンネット・リー)』と『幽靈を論ず(メレジコウスキー)』二篇の翻譯はこの頃のものかとも書かれてゐる。幼兒教育に興味を持つてモンテッソリ教育法の研究に勵み、一九一四年に、丸山千代の助手として櫻楓會託兒所に入る。その後も櫻楓會本部の後援を得て、更にモンテッソリ教育法の研究と實踐に專念した。
 一九一六年に吉賀貞輔と結婚。自ら幼兒教育の場を持つて實踐したいとの強い希望により、一九一八年六月、東京府澁谷町中澁谷に「私立家庭幼稚園」を開設する。定員二十五名の家庭的幼稚園で、自治獨立の精神と知識の基礎である感覺の涵養を目的とした。七月に長男を出産。一九二五年に世田谷若林に移轉し、その後も設備資金確保のため懸命に努力するが、一九四二年に胃癌のため死去、享年五十歳。綾子が開設した「家庭幼稚園」は經營者こそ變つてゐるが、今も同じ場所、同じ名稱で存在するのだといふ……。
 『過度時代の婦人』は、確認してみるとAnnette M.B.Meakinの著書で、綾子は翻譯者であるらしい。翻譯といふのは經歴を見ても綾子の仕事として自然なものだし、一九一二年十二月といふ出版年月も『青鞜』に翻譯を寄せてゐた時期と重なるから、同一人物と斷定してよいだらう。

国立国会図書館デジタルコレクション - 過渡時代の婦人
 さて、國會圖書館の對應は非常に速く、送つたのは五日の午前一時頃であつたのが、翌日の午後三時半には「著作權處理係」から「この度は、当館で著作者情報公開調査をしております武市綾子氏につきまして、情報をご提供いただき誠にありがとうございました。当係で確認後、登録させて頂きます。」とのメールが來た。
 そして、これは今日になつて確認したのだが、生歿年を確認する際に眞先に參照すべき「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス」を見ると、無事に登録されてゐることが確認された。

https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00517847
 『過度時代の婦人』のはうは未だにインターネット公開とはなつてゐないが、テキスト本文の著作權が切れてゐても序や跋、插繪などに著作權の有效なものが含まれてゐると公開は出來ないので、さうした事情があるのかもしれない。
 今回、私は『「青鞜」人物事典』編輯者の方々の成果を圖書館に送つただけに過ぎないが、一人の著作者の情報を國會圖書館が明らかにすることに、少しでも役立てたことは嬉しい。そして言ひたいのは、私達一般人でも手元の本の情報を國會圖書館に送り、孤兒作品を減らすのに役に立てるかもしれないといふことだ。
 因みにもう一人、同じ『「青鞜」人物事典』に載つてゐる上田君子(上田君)も公開調査對象になつてゐたが、彼女は國會圖書館側の調査でも、生歿年共に明らかになつてゐた。しかし一九七一年歿といふことで未だに著作權保護の對象とはなつてをり、この場合はいづれにせよ二〇二二年にパブリックドメインとなることが確認できる。これは遺族から許諾を得て今からでもインターネット公開をしたいが、連絡がつかないといふことであらう。

Amazon KDPによる電子書籍出版の振り返り(平成二十九年)

 平成二十九年も殘り僅かになつたので、今年になつてから私が始めたことの一つを、ここで一度振り返つておかうと思ふ。それは電子書籍の出版である。
 ブログにはこれまで書いてゐなかつたのだが、以前からAmazonKindle Direct Publishing(KDP)といふサービスを利用して、電子書籍の出版を行つてゐた。私がここでやりたいと思つたのは著作權切れの文學作品を復刻することで、今年九月の初めに第一册目である、鷹野つぎ著『眞實の鞭』を出版することが出來た。
 何故電子書籍といふ形で文學作品を復刻しようと思つたのか? それは最近になつて今更のやうに、近代の作家たちの著した作品の、絶版となり入手困難なものの多いことに氣付かされたからである。現代では名も忘れ去られ、全集や作品集なども出てゐない、しかも古書の價格は高く、それも出廻つてゐる數は非常に少ない、そんな作家は大勢ゐる。そんな作家や作品たちに、再び陽の目を見せてやりたい、と思ふやうになつた。
 その頃、ほぼ時を同じくして、國會圖書館デジタルコレクション(デジコレ)の便利さも知つた。國立國會圖書館が運營するこのサイトでは、著作權切れの書籍の畫像が大量に公開されてをり、それらのデータは著作權法に觸れなければ、商業的な目的に使ふことも可能である(但しこれは「保護期間滿了」と書かれてゐるものに限られ、著作權者が不明であり特別な裁定によつて公開されてゐるもの、著作權は失效してをらず許諾によつて公開されてゐるものなども多くあるので注意されたい)。これは本當に素晴らしいサービスだと思ふし、かういつた事業には是非惜しみなく税金を使つて頂きたいと思ふ。現在では入手困難な作家たちの作品も多くこれで讀むことが出來る。ただしこれはじつくりと讀むのに最適な環境とはいへない。あくまでも古い本をスキャンしたデータであり、パソコンのモニターは長時間見れば目が疲れる。KDPのことを知つたとき、それならばデジコレで手に入るテキストを利用して、自分が電子書籍にしてしまはう、と思つたわけである。

 KDPで本を出さう、と思ひ立つたのが今年の初め、確か冬休み中の二月の終り頃で、そこからアルバイトで金を貯め、スキャナーや讀み取りソフトを買ひ、翻刻を始め、翻刻が完了した頃にはもう夏も終りかけてゐた。とはいへ私もずつとこれにかかりきりであつた訣ではなく、大學が忙しかつたこともあり、途中で完全に放置してゐた時期もあつたりしたので、氣の早い人ならばもつと早く出版に漕ぎ付けられたことだらう。
 KDPの出版に當つてはAmazonの審査を通過する必要があり、データを提出してから、著作權が切れてゐることを證明しろと何度もメールで要求される、といふ話を先驅者の方々の記事で讀んでゐたため、果して無事にいくかどうかと危惧してゐたのだが、特に何を言はれることもなく無事に出版された。
 色々と入力をし、データを上げて出版申請を完了させたのが九月七日の夜。翌日の朝に見た時にはまだ出版されてゐなかつたのだが、晝前に「提出された本がkindleストアで出版されました。」とのメールが送られて來、確認すると見事にAmazonで販賣が開始されてゐた。
 記念すべき第一册目は、鷹野つぎの『眞實の鞭』を出版した。彼女は私の地元である靜岡縣の、濱松市出身の作家であり、私は小學校の頃の副讀本で彼女のことを知つた。そしてその副讀本に載せられてゐたのが『眞實の鞭』の書影であり、長さや内容も丁度よく、さうした思ひ出があることもあつて、第一册目にはこの本が選ばれたのだった。當時の廣告には「感想集」と書かれてゐるが、内容は隨筆的な文章や女性の生活や地位に關する意見、小説的な文章まで樣々である。
 それから、九月末には加藤武雄の『感謝』、芥川龍之介の『煙草と惡魔』、十月下旬には牧野信一の『父を賣る子』、十一月中旬には南部修太郎の『修道院の秋』を復刻出版し、現在は計五册を販賣してゐる。これらは全て新潮社の『新進作家叢書』に含まれる短篇集で、このシリーズは作家、テキストの分量、内容、シンプルで復刻しやすい表紙畫像(表紙もなるべく當時のものにしたいので)と共に丁度いいものであつたので、これを復刻することにした。
 芥川と牧野は青空文庫のテキストを利用させて頂いたのだが、デジコレのものと校合して底本通りに本文を書き換へた。南部は七篇のうち三篇は青空文庫に收録されてゐたが、殘り四篇は未收録だつたので獨自に翻刻した。全テキストを自分で翻刻したのは『眞實の鞭』と加藤の『感謝』だけだが、やはり全部を復刻するといふのはかなり大變な作業である。入力が終つても次は入念な校合の作業が待つてゐる(校合に關しては全て行はなければならないが)。それも全部終り、表紙畫像をペイントソフトで加工してから、やうやく出版に漕ぎ着けられる。
 しかし入手困難な、忘れられた作品に再び脚光を少しでも浴びせたいといふ目標から考へれば、青空文庫に入つてゐないものの方が斷然この理念には叶つてゐるわけである。芥川や牧野は今も廣くその名を知られてゐることは言ふまでもないが、まづは出版點數を増やしたいとの思ひから出してもゐる。しかしこれは決して意義のないことではなくて、彼らの作品といへども現在は、全集でなくては歴史的假名遣、舊字體表記の作品は讀めないから、それを手輕に讀むことができるやうにしたといふだけでも一應の意味はあると思ふ。

 因みに、KDPでは出版社名を入力出來る欄があるのだが、ここでの屋號は「永文堂」とした。優れた文を永く後世に受け繼がせていきたい、といふ意味のもので、適度に分りやすく、適度に古風な感じは出てゐるのではないだらうか、と個人的には思つてゐる。『眞實の鞭』出版の際にはTwitterアカウントも作成し、自分でリツイートなどもして宣傳を行つた。IDは@Eibundoである。

 さて、この永文堂の本が三ヶ月でどのくらゐ賣れたかを見てみよう。
 

・九月…… 眞實の鞭(一册)

・十月…… 感謝(二册)父を賣る子(二册) 

・十一月……修道院の秋(二册)煙草と惡魔(一册)

 

 計八册。九月の『眞實の鞭』は、同じくデジコレの書籍を「富楼那阿難堂」の屋號で電子復刻してをられるpuru(@puruPera)さんが購入して下さつたものであり、つまり五册のうち唯一これだけが未知の購入者に買はれてゐない。puruさんは現在青森縣で按摩師をやつてをられる方で、富楼那阿難堂は按摩や健康に關する書籍の復刻が主である。關心のある方は是非見て頂ければと思ふ。
 私は價格を二百圓に統一してをり、利益は一册當り六十五圓がAmazonから支拂はれる。つまり利益は五百二十圓となる。五册の電子書籍を作成、出版するのに拂つた勞力には、一般的に見れば全く釣り合はない金額であるといへよう。時給にすれば一體幾らになるのか……とはいへ、私としては全く未知の方が七册も買つて下さつたことが嬉しく、また一册も賣れない可能性も充分に有り得ると考へてゐたので、むしろこれだけ賣れたことには驚いてもゐる。購入者の方々にはこの場で深くお禮を申し上げたい。
 單に金を稼ぎたいといふのであれば、私のやうな復刻電子書籍の出版は全く割には合はないであらう。既に青空文庫のテキストをまとめた『漱石大全』だとか『太宰治作品集』だとかの電子書籍は多く出版されてをり、電子書籍の特性を生かして一册に何十、何百と作品を詰め込んだそれらは、付けられてゐるレヴューの數から考へても相當に賣れてはゐるらしいが、今更單に青空文庫のテキストをコピペして後追ひをしたにしても、これらに追ひつける道理はないであらう。
 因みにこれらの、青空文庫にあるものは何でもかんでも全てぶち込んだ電子書籍は、小説や隨筆、評論、翻譯、その他の短文などがごちや混ぜであり、しかも歴史的假名遣ひと現代假名遣い、舊字體と新字體も混在してゐて一つの本として讀み通すには非常に讀みにくいと思ふのだがどうなのであらうか。あくまでも青空文庫テキストを讀みやすい環境に移動させたものといふ認識で買ふべきなのかもしれない。中には主要な作品が全然入つてゐないのに全集や作品集などと銘打つたり、別作家の作品が混ざり込んでゐたり、目次もまともに付けられてゐない粗惡なものも多くあるやうなので、無料サンプルをダウンロードするなどして、確認の上で買ふのが無難であらう。

 三ヶ月の間に五册を出してみて、翻刻や校合などの作業は大變ではあるものの、非常に樂しい作業でもあつた。やはりある程度は自己滿足的な要素がなければ、かういふ作業は成し得ないものかもしれない。たとへ二名の方だけであつても、往年の大流行作家でありながら全ての著書が絶版となつて久しく、今では名前を知る人も少ない加藤武雄の作品を買つて下さつたことが嬉しく、それだけでも一册分全てを翻刻した意義はあつたといふものである。
 取り敢へず或る程度まで出版點數を増やせば、目に付きやすくなるのではないかとも考へられるし、來年も限られた時間の中で一册でも多く出し、忘れられた作家や作品に僅かながら光を當てていきたいと思ふ。今はスキャナーを利用して、デジコレで公開されてゐない、眞に入手困難な作品の出版準備も進めてゐるので、また出版の機會には見て頂ければと思ふ。

 

※追記……記事を書いてのちの十二月二十一日に『修道院の秋』が一册賣れたので、平成二十九年の電子書籍による收入は最終的に五百八十五圓となつた。(平成三十年一月十三日)

真実の鞭

真実の鞭

 
感謝

感謝

 
煙草と悪魔

煙草と悪魔

 
父を売る子

父を売る子

 
修道院の秋

修道院の秋

 
 

ブログを移轉した

 三年近くFC2ブログを使つてゐたのだが、はてなアカウントを作つたのだからブログもこちらで書くことにしてしまはうかと、最近になつて考へ始めた。以前から廣告の多さも氣になつてはゐたのである。そこで檢索してみたところ、大變親切に解説をして下さつてゐるブログ記事も見つかつたので、思ひ切つて移轉してみることにした。

www.kailua020.com

 URLを貼ると、かういふ風にリンクを埋め込むことも出來るのですね。實に便利な機能だと思ふ。

 この方法でやつてみたところ、本當にあつといふ間にはてなブログに移行することが出來た。記事や寫眞にも異常はなく、全て無事にこちらへ移動出來てゐる。但しこの機會に、幾つかの過去の記事は非公開にしてしまふ(下書き状態に戻す)ことにした。流石に三年前の記事ともなると、全世界に公開し續けたいと思はされないやうなものも多い……。

 ひとまづはこれで心機一轉といふ訣で、これまで何かと滯りがちだつたブログ更新が、今度は定期的に續けていくことが出來るかは分からないが(恐らく出來ない)、取り敢へず無事に移轉することが出來たといふことで、これをはてなブログへの初投稿記事としたい。

 

國立國會圖書館へ行つて來た話

 先日、國立國會圖書館へ、利用者カードを作りに行つた。

 何故利用者になることにしたかといふと、最近になつて、近代の樣々な文學作品の翻刻をしたいと考へ始めたからで、自分としては主に、入手困難な作品を翻刻して簡單に入手出來るやうにしたいといふ考へであつたので、この場合、矢張り國會圖書館は利用すべきであることになる。

 さて、國立國會圖書館の最寄りは永田町驛である。地下鐵の入口を出て、圖書館を目指してしばらく歩くと、國會議事堂の姿が見えてくる。以前に見たのはいつであつたかと考へたが、恐らく最後に間近で目にしたのは六年程前であらう。國會圖書館はそのすぐ近くで、こんな場所にあるのかと驚いた。因みに此處に來るのは初めてである。

 流石國會圖書館だけあつて、敷地内に入ると、邊りには嚴肅な雰圍氣が漂つてゐるやうに感じられる。やや緊張しながら重々しい列柱の間を拔け、取り敢へず利用者入口と書かれた本館の入口へ入つた。

 何處でカードを作るのだらうと邊りを見廻すと、館員の人に「何をお探しですか?」と聲を掛けられる。利用者カードを作りに來たのですが、と答へると、「カードの作成はあちらです」と、外にある別の建物を指さされた。どうやらカードの作成は新館で行ふらしく、掲示をよく讀んでゐなかつたばかりに、早速恥をかいた。分りましたと答へ、慌ててこそこそと移動する。

 新館の入口に入るとすぐ館員の人がゐて、愛想よく用件を尋ねられたので、カードの作成といふ旨を傳へる。すると「現在の住所を證明出來るものをお持ちですか?」と聞かれ、持參した保險證を見ると以前の住所のままだつたのだが、大學の學生證の方は裏に現在の住所を書いてあつたため、これで良いといふことになつた。新規登録申込書を渡され、選擧の投票記載所のやうなところで記入する。メールアドレスの記入欄もあり、これは任意だつたのだが、利用者カードの期限が切れさうになると通知してくれるといふので記入しておく。期限は三年間である。

 それからこれを受付に持つていき、提示した保險證や學生證と念入りに見比べられて確認された後、番號札を渡されて待つことになつた。待ち時間はそれほど長くはなく、すぐにカードを受付で受け取ることが出來た。ここで館内のパソコンの使用に必要なパスワードも一緒に受け取つた。このパスワードはいつでもネット上で變更出來る。

 短い説明を受けたのち、奥にあるロッカー室へと進む。大きな荷物は持ち込むことが出來ず、ここに鞄などを預けるのである。ロッカーの使用には百圓玉が必要だが、これは使用後に返金される。メモ用の帳面と筆箱、カードとパスワードの書かれた書類、財布、携帶電話などを持つてロッカー室を出る。印刷や複寫には金がかかるので、財布は必要である。

 ロッカー室を出るとすぐ館内への入口で、機械にカードを當てて中へ入る。中は素晴らしい光景だつた。

 巨大な吹き拔けが建物を貫いてをり、天窓からは白い光が射し込んでゐた。向ひの部屋にもこちら側にも、多くのパソコンがずらりと竝べられてゐるのが見える。壁面には巨大な畫が飾られてゐた。壓倒されるやうな空間で、思はずしばし立ち止つて眺める。それからパソコンに向つた。

 パソコンはカードを機械の上に置き、パスワードを入力することで使用出來る。幾つかのデータベースが表示されたので、いつも使つてゐる「國立國會圖書館デジタルコレクション」を見る。自宅で見るのとは異なり、まだ著作權の切れてゐない書籍もここでは自由に見られるので、さながら天國である。古い戰前戰後の雜誌もここで見られる。

 印刷も出來るといふことだつたので、試しにやつてみることにする。私の選んだのは某文藝誌の中の短篇小説で、既にこの小説自體の著作權は切れてゐるものの、インターネットでは公開されてゐないものである。傍らに置かれたマニュアルを頼りにページ番號を入れ、印刷範圍を指定し、印刷の申し込みをしてみる。

 それからパソコンを閉ぢ、階段を降りてプリントアウトカウンターまで行く。印刷したい旨を告げ、椅子に坐つて待つ。ここでもそれ程待たされることはなく、カードの番號下四桁で呼ばれ、印刷物を受け取ることが出來た。五枚で税込七十五圓である。

 ここで氣になることがあつた。先程印刷する際、モニターに、印刷したものをネット上に掲載する際は、當館の許可を得なければならないといふ表示が出たのである。このことについて尋ねてみたく思ひ、金を拂つてから確かめてみた。すると奥から男性が出てきて、詳しく説明をしてくれるといふ。そのまま伴はれてその部屋を出、廊下を通つて奥の部屋へ通されたのだが、こんな特別な扱ひを受けたことに私はひどく恐縮してしまひ、まるで本を盜まうとして發覺したかのやうな恐ろしい思ひさへ感じた。

 しかし恐れることなど何もなく、通された部屋のカウンターで私は書類を見せられ、このやうなものを提出しなければならないのだといふ説明を受けた。男性の説明はとても親切であつた。

 しかし説明を受けても納得がいかないのは、單に國會圖書館内で印刷、複寫しただけのものであるのに、まるで國會圖書館が著作權を保有してゐるかのやうに、許可を得なければネットに掲載してはならないといふことであつた。これは著作權が切れてゐようがゐまいが同じことである。かうした疑問を感じながらも、前述の如く恐縮してゐたためについ質問をしそびれ、その後は早々に私は圖書館を後にしたのであつた。

 どうも尻切れトンボのやうな文章になつてしまつたが、中々樂しく、貴重な體驗であつた。印刷した資料のネット掲載については、その後色々と調べてみたので、リンクを貼つておく。結局、國會圖書館の許可を得なければ、國會圖書館内で印刷した資料は自由に掲載したりは出來ないやうである。もつと自由に使へるやうになるといいのだが、中々さうもいかないのかもしれない。

国立国会図書館所蔵資料の掲載/展示/放映/インターネット・ホームページ等への掲載を希望される方へ

http://www.ndl.go.jp/jp/service/copy_publication.html

国立国会図書館所蔵資料の復刻/翻刻を希望される方へ

http://www.ndl.go.jp/jp/service/copy_reprint.html

竹田敏彦『時代の霧』

 竹田敏彦といふ作家を知ったのは、偶然目にすることとなつたこの記事――『出版・読書メモランダム』内の「古本夜話480 昭和十年の流行作家竹田敏彦と『涙の責任』」(http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20150608/1433689207)に於てであつた。昭和十年代の流行作家といふことだが、「もはや現在では読まれることもなく、忘れられた作家と見なしていいだろう。」といふ一文が私の關心を呼び起させた。

 確かに檢索して調べてみると、竹田の作品は全て(恐らく大分以前から)絶版となつてをり、新刊で手に入れることは最早出來ない。しかし1961(昭和36)年に亡くなつた彼の作品は2011(平成23)年に著作權が失效してをり、國立國會圖書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/)で幾つかの作品が公開されてゐる。

1.曉は遠けれど(後篇のみ)

2.歌姫懺悔

3.時代の霧

4.制服の街

5.第二の虹

6.二つの結婚

7.牡丹崩れず(前篇のみ)

8.二人の母(續・牡丹崩れず)

9.みたての花

10.明治偉人少年時代

11.若い未亡人

 この11作品が公開されてゐるが、残念ながら冒頭で紹介した記事にあつた『涙の責任』はないやうである。しかし「もはや讀まれることもない」といふのなら、自らどれか一つを試しに讀んでみようと思ひ、この中から『時代の霧』のページを開いた。しかし冒頭を讀んでいく内に惹き込まれ、段々と讀み進めて、たうとう或る箇所まで來たところで、この小説は全て讀まうと決心するに至つた。

 途中からはスマートフォンに『帝國圖書館』といふアプリケーションを入れ、專らこれで讀んだ。非常に便利なアプリである。長らく讀書は紙にこだはりたいと思つて來たし、今でも紙で讀めるものは紙で讀みたいと思ふのだが、かうしてみると必ずしも惡いといふわけではなささうだと思ひ直した。

 前置きが長くなつたが、この小説は非常に面白く讀めた。先程の記事にも竹田の作品は大衆受けしたとあり、これもさういつた性格のものであらうと思はれる。因みに出版されたのは1939(昭和14)年である。

 

 ここからは僅かながら内容に入るので、未讀の方は注意して頂きたい。

 冒頭は銀座デパート屋上から望遠鏡で「人間散歩」をする風間淳三と、駒井春實といふ謎めいた令孃の出會ひから始まる。そして淳三は春實に、オンブル聯盟といふ怪しげな結社へと案内される……。この結社は本筋には結局殆ど關係しないのだが、こんな風に讀者の好奇心を煽り立てる形で物語は始まるのである。

 この小説では善人と惡人とが明瞭に區分されてゐて、驚くやうな味方の裏切りは起らない。そして善人側は、本當に素晴らしい、善良な性格の持ち主揃ひである。殆ど性格的缺點などないかのやうに私には思はれた。よつて、味方同士の爭ひといふのも殆ど起らない。これらが強く印象として殘つた。

 しかし作中に描かれる己三雄ら惡人達との鬪ひ、主人公や春實、鳥羽靜子、松山夏彦らの入り亂れる戀には惹き込まれるものがある。戰前といふことを忘れさせさうなほど、これらは生き生きして感じられた。

 そして他にも印象に殘つたのは、幾度も強調される貧しさである。鳥羽一家はもとより、春實も社長令孃としての生活から一轉、一時は女工として暮すまでに零落してしまふ。これは冒頭に掲げた記事でも言及された、少年期に家が沒落し貧乏の苦しみを味はつた竹田の經驗から來るものなのであらう。竹田の温かい、貧しい者への視線が感じられた。

 一時期中斷してゐた當ブログの小説感想記事であるが、今回、忘れられた作家の小説を掘り起すといふ意味で、記事にすることに少しでも意味があるのではないかと思ひ、書いてみた次第である。興味のある方は是非、國立國會圖書館デジタルコレクションででも讀んで頂ければと思ふ。

『現代知性全集』一覽

 圖書館で先日、學術出版會が2010年に發行した『日本人の知性』シリーズを見つけたのだが、このシリーズは嘗て日本書房から1958年から1961年に掛けて出された『現代知性全集』 を底本とし復刻したものとあつた。しかし『現代知性全集』 の全てを復刻した譯ではなかつたやうなので、誰が復刻され誰がされなかつたのか調べてみると面白いと思ひ、ネット上でまづは調べることにした。

 しかし『現代知性全集』の全50卷の内、第31卷と第47卷だけはどうしても名前が分らず、しかも國立國會圖書館のページにもないやうであつた。この二卷は何らかの事情で發行されることはなかつたのかもしれない。それを知つて興味が湧き、どうにかして出されるはずだつた名前だけでも分らないものかと、今日圖書館にて『現代知性全集』の一册を借り出して末尾のページを見ると、全50卷の書名が全て載つてゐた。ネット上で『現代知性全集』全卷を一覽にしたページはないやうであるので、ここに載せておく。

1. 阿倍能成集

2. 阿部知二

3. 天野貞祐

4. 池田潔集

5. 伊藤整

6. 大内兵衛

7. 奥野信太郎

8. 大河内一男

9. 大宅壮一

10. 河上徹太郎

11. 小泉信三

12. 清水幾太郎

13. 高橋義孝

14. 辰野隆

15. 谷川徹三

16. 都留重人

17. 手塚富雄

18. 中島健蔵

19. 中野好夫

20. 中村光夫

21. 中谷宇吉郎

22. 古谷綱武集

23. 本多顕彰

24. 武者小路実篤

25. 阿部真之助

26. 石川達三

27. 内田百閒集

28. 佐藤春夫

29. 鈴木大拙

30. 田中耕太郎集

31. (中山伊知郎集)

32. 長谷川如是閑

33. 南博集

34. 室生犀星

35. 吉田健一

36. 和辻哲郎

37. 荒正人

38. 宇野浩二

39. 賀川豊彦

40. 亀井勝一郎

41. 河盛好蔵

42. 小林秀雄

43. 渋沢秀雄

44. 広津和郎

45. 蠟山政道集

46. 池田弥三郎

47.(今東光集)

48. 坂西志保集

49. 式場隆三郎

50. 徳川夢声

 第31卷は中山伊知郎集、第47卷は今東光集である。この二册以外には全て「既刊」の星印が附されてゐた。書名で檢索してもこの二册の痕跡は全く出てこないため、何故かは分らないがやはり發行されなかつたと見るのが適當ではないかと思はれる。少し氣になつたのでわざわざ記事にしてみた。

 最初調べた目的に立ち返つてみると、『日本人の知性』で復刻されたのは、亀井勝一郎谷川徹三小林秀雄鈴木大拙和辻哲郎中野好夫長谷川如是閑清水幾太郎、小林信三、大宅壮一天野貞祐、南博、高橋義孝中村光夫奥野信太郎賀川豊彦式場隆三郎大内兵衛辰野隆、古谷綱武の20人である。『現代知性全集』の5分の2といふことになるが、比べてみるのもまた興味深いのではないかと思ふ。

國立大學人文系學科廢止へ――學術研究の輕視

 文部科學省は平成26年8月、省内の「國立大學法人評價委員會」の議論を受けて、「教員養成系、人文社會科學系の廢止や轉換」を各大學に通達した。重大な事件であるが、驚いたことに殆ど騷ぎにはなつてをらず、東京新聞が9月2日に「国立大から文系消える?」といふ見出しで取り上げたぐらゐである。

 實際に文科省が發表した「国立大学法人評価委員会の答申」(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kokuritu/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/08/13/1350876_02.pdf)を確認すると、3頁目の「2.組織の見直しに関する視点」にかうある。

 ○ 「ミッションの再定義」を踏まえた速やかな組織改革が必要ではないか。特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むべきではないか。

 

 末尾の、社會的要請の高い分野といふのは理系の技術者等のことであらう。これは5月6日の、安倍晋三總理によるOECD閣僚理事會基調演説の内容と重なる。

 ……だからこそ、私は、教育改革を進めてゐます。學術研究を深めるのではなく、もつと社會のニーズを見据ゑた、もつと實踐的な、職業教育を行ふ。さうした新たな枠組みを、高等教育に取り込みたいと考へてゐます。

 横濱國立大學教授の村井尚氏もブログ(http://tanshin.cocolog-nifty.com/)でこの問題を取り上げてゐる(国立大学がいま大変なことになっている)。

 近年では大學にも市場原理の波が押し寄せてゐるが、これほどの暴擧が果して許されるものなのであらうか。大學は技術者養成學校ではない。學術研究を輕視し、最高學府たる大學を、職業のためだけの教育の場にして良い筈がない。

 そもそも、安倍總理は「クールジャパン」を推し進め、日本文化を世界へ發信しようとしてゐる筈だ。それにも拘はらず、若者が文化を學ぶ機會を、場をなくさうとしてゐる。政府主導でこのやうな輕率な改革を進めてゆくやうでは、日本文化の未來は暗い。